平川市には現在219ヶ所の遺跡が「周知の埋蔵文化財包蔵地」として登録されています。
発掘調査等によって遺跡から出土した土器や土偶などの遺物は、郷土資料館(文化センター2階)に展示しています。
ここでは、市を代表する7つの遺跡を紹介します。
目次
- 太師森遺跡(たいしもりいせき)
- 大光寺新城跡(だいこうじしんじょうあと)
- 堀合(1)遺跡(ほりあいいちいせき)
- 石郷(4)遺跡(いしごうよんいせき)
- 原遺跡(はらいせき)
- 八幡崎(1)遺跡(やわたざきいちいせき)
- 四戸橋遺跡(しとばしいせき)
太師森遺跡(たいしもりいせき)
新屋遠手沢に所在し、遠手沢川流域の八甲田山系から津軽平野に延びる標高約260mの舌状台地上に位置します。平成12年度から平成17年度まで学術調査が実施され、縄文時代前期から晩期、そして平安時代に跨る複合遺跡であることがわかりました。縄文時代後期前葉(十腰内Ⅰ群土器期)の環状列石や組石石棺墓群を主体とし、その他にも土器棺や竪穴建物跡が見つかっています。
▲日時計状組石遺構 | ▲遺跡空撮写真 |
大光寺新城跡(だいこうじしんじょうあと)
大光寺三村井に所在し、平川の分流である六羽川右岸に発達した小丘陵に立地しています。13世紀初頭に鎌倉御家人の曽我氏が執権北条義時の地頭代として入植して以来、南部氏や津軽氏など城主の交代を繰り返しながら、17世紀初頭の高岡城(弘前城)築城に伴い廃城となるまで約400年にわたり存続しました。現在まで14次にわたる調査が実施され、掘立柱建物跡や竪穴建物跡、鍛冶炉跡、大規模な堀跡、井戸跡や土橋などが検出されています。本県の中世史を考察する上で極めて重要な遺跡です。
▲発掘調査風景 | ▲遺跡から出土した遺物 |
堀合(1)遺跡(ほりあいいちいせき)
唐竹堀合に所在し、唐竹川右岸の標高91mから93mの丘陵地に位置します。この丘陵地には堀合(1)~(4)遺跡が点在していますが、本遺跡がもっとも西に位置しています。昭和47年度と昭和54年度に発掘調査が実施され、遺構として石棺墓、石囲炉、フラスコ状土坑、遺物として縄文時代後期の土器、石器、土偶、土製品が見つかりました。土器のうち、大型の壺は人骨が収納された土器棺と考えられています。また、石棺墓の石材の一部は調査後に運び出され、平川市文化センター第3駐車場に展示されています。
▲土器棺 | ▲石棺墓 |
石郷(4)遺跡(いしごうよんいせき)
石郷村元に所在し、平川により形成された沖積平野上、標高38mの場所に位置します。石郷地区には石郷(1)~(5)遺跡と石郷神社裏遺跡の6遺跡が所在していますが、本遺跡がもっとも北に位置しています。遺跡群は昭和初期にはすでに知られていたようで、昭和13年には陸奥史談会会員が遺跡見学会を開催しています。昭和49年度の発掘調査により、縄文時代晩期の埋設土器3基、縄文時代後期から晩期の土器、石器、土偶、土製品、漆製品が見つかりました。出土した土器の中には、写真のように人の顔に見える模様がついたものもあります。
▲発掘調査風景 | ▲顔のようなものがついた土器 |
原遺跡(はらいせき)
尾上原に所在し、金屋地区から八幡崎地区まで続く舌状台地のほぼ中央部に立地しています。これまで7次にわたって調査が行われており、須恵器・勾玉・帯金具などの遺物や、のべ19基の古墳などが確認されました。昭和48年には蕨手刀(平川市指定文化財)が見つかっています。津軽地方では数少ない終末期古墳群を有し、津軽はもとより日本の古代史を推し量る資料として重要な遺跡です。
▲発掘調査風景 | ▲蕨手刀(平川市指定文化財) |
八幡崎(1)遺跡(やわたざきいちいせき)
八幡崎宮本に所在し、浅瀬石川と平川に挟まれた標高29mから30mの低丘陵地の西端に位置します。現在、遺跡の一部は八幡宮境内になっています。江戸時代の終わりころには、土器が出土することが知られており、昭和23年の猿賀中学校建設工事により遺跡として確認されました。昭和36年度から昭和38年度まで実施された調査により、縄文時代晩期の土器、石器、土製品、石製品が見つかったほか、低湿地のため漆器や木製品が腐朽せずに見つかりました。
▲遺跡近景 | ▲発掘調査風景 |
四戸橋遺跡(しとばしいせき)
碇ケ関古懸四戸橋に所在し、不動川左岸の丘陵上、尾根上突端に近い標高230mから260mの場所に位置します。平成7年度から平成9年度まで発掘調査が行われ、遺構として縄文時代前期・中期の竪穴建物跡やフラスコ状土坑など、遺物として縄文時代前期・中期・後期・晩期の土器や石器、土偶や岩偶が見つかりました。なかでも、竪穴建物跡から出土した土偶は欠損がなく、平川市の文化財に指定されています。
▲遺跡遠景 | ▲板状土偶(平川市指定文化財) |