(注)ひらかわ市民新聞の記事は、「市民記者養成講座」受講生が平川市民記者として取材・作成したものです。
また、掲載内容は取材当時のものです。
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津軽バイオマスエナジー
2020年4月10日
1万4000世帯分の電力を供給できる平川市のバイオマス発電
平川市内の公共施設の電気が、尾上地区にある発電事業を手掛ける会社「津軽バイオマスエナジー」で作られていることをご存知でしょうか? 同社を訪ね、代表取締役の奈良進さんからバイオマス発電について学んできました。
平川生まれのエネルギー
「バイオマス」とは、木材や生ごみを利用した、石油などの化石燃料の代わりとして注目されているエネルギーのことです。津軽バイオマスエナジーでは、山の間伐材やリンゴの老木、せん定した枝などを利用した「木質バイオマス」を用いて発電しています。電気は、木質バイオマスを燃焼させた熱を使って発生させた水蒸気で、タービンを回転させて作ります。しかし、ただ木を燃やせばいいというわけではありません。伐採した木は水分を含んでいる上、大きいままでは燃焼効率が落ちてしまいます。そのため、まずは木を工場の敷地内で約6カ月かけて乾燥させ、含有する水分を取り除きます。その上で専用の機械で薄いチップ状に破砕し、ようやく燃焼する原料となります。そして、驚きの発電出力は、毎時約6250kw。年間約1万4000世帯分の電力を供給できる計算になります。
発電以外の実績も
津軽バイオマスエナジーでは発電だけでなく、ミニトマトのハウス栽培にも取り組んでいます。電力会社と農業は結び付かないようなイメージがあるかもしれませんが、燃焼の際に発生する「熱」を利用して温室を作ります。その規模は425坪のビニールハウス2棟(2800平方メートル)におよび、年間25トンのミニトマトの生産量があります。
この事業は、2011年の東日本大震災後の電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法(再エネ法)をきっかけとして、廃材の利用と市内の雇用対策に注目し、バイオマス発電事業を始めたとのことです。電気は市内学校の照明などに利用されることで、子どもたちが勉強する環境を支えてくれています。また、発電会社とチップ製造会社には47人の社員が在籍しており、造林会社でも20人の新規雇用が生まれ、平川の就職先としての役割も担っています。
このように、津軽バイオマスエナジーは、木質バイオマスを利用して電気を作っているだけではなく、熱を利用した農業や地域の雇用を生みだし、経済の活性化に大きく貢献しているのです。
【津軽バイオマスエナジー】
住所:平川市中佐渡下石田35-1
電話:0172-57-4444
※見学の受け入れは火曜・木曜。要予約
(記:市民記者 齋藤舜也)
※2019年5月25日に行った集団取材をもとに作成しています。
酒蔵跡地
2020年4月10日
尾上地区にはかつて酒蔵があり、ワイン醸造も行っていたという。古文書「半十郎口上書」によると、文禄の頃(1593年~1596年)には猿賀村で酒造業を営業していたという。津軽為信公の時代から平川で酒造をしていたことになる。1644年に尾上村ができると、半十郎も尾上村に移住し、酒造を始めたという。その後、大火や地震、凶作といった災害に見舞われ、醸造業の御印札は譲り継がれていき、1814年に西谷又一郎と西谷伊兵衛の重立(おもだち)二人に渡ったという。
昭和10年頃までは尾上十文字角に何棟も酒蔵があった。今でも跡地が残っているのは「寿酒造」と「正泉(まさいずみ)」だけとなっている。
寿酒造は2010(平成22)年まで営業。当時の酒造の名残を残す煙突や酒蔵などは残っているが、残念ながら使われていない。関係者から住居兼酒蔵となっている建物の中を見せてもらうことができた。当時のまま残しているため建物の老朽化は進んでいる。
正泉は現在、コーヒー&カラオケ店「憩い亭」として営業している。店主の松田容子さんによると、10数年前に同地を買い取り、営業を始めたという。「古民家を活用したイベントなどに貸し出していたこともあった。醸造関係で残っているものはうちわと屏風くらい」。残された文献が少なく、今では記憶として残るだけが惜しい。
碇ヶ関にあるマムシ専門店-76歳女性店主の笑顔の源
2019年12月4日
「道の駅いかりがせき津軽関の庄」から国道7号を挟み真向かいに、目を引く建物がある。外壁に「マムシ すっぽん サメ軟骨」と書かれた建物といえば皆さんお分かりになる人もいるのではないだろうか。取り扱う商品は推測できるが、一体どのような店なのか…。気になっていた方も多いのでは? ※7月27日に実施された「碇ヶ関取材ツアー」による取材を元に作成しました。
マムシが並ぶ店内と76歳の店主
店内に入るとまず目に入ってくるのがガラスのショーケース。中には乾燥されたマムシとすっぽんが数匹並べられ、各々値札が付いてあり、商品だとわかる。店奥にはなぜかダンベルなどのトレーニングマシーン。この不思議な組み合わせは一体? 店主の奈良和枝さん(76歳)が「なんでも聞いてね~」と明るくお声がけしてくれた。
正式の店舗名は「あじゃら山 マムシ堂」。1997(平成9)年に開業し、今年で23年目。
マムシと聞いて真っ先に思い浮かぶのは、ヘビそのものの姿や「滋養強壮がスゴそう!」という印象。和枝さんによると「昔はマムシの焼酎付けを持ってあじゃら山に入ったと聞いている。マムシは漢方にも使われていたが、以前はマムシの黒焼きが主流だった。しかし、焼いた後はミネラル分しか残らず他の成分は失われるということが学説として証明され、現在は電気で乾燥させることによりたんぱく質を残せるようになったのでより効果が得られる」という。
「マムシ堂」では赤マムシを5千円から、スッポンは1万円から販売。赤マムシはその場で和枝さん自らハンマーで叩いて粉状にし、袋詰めする。
「ウチのお店は実演販売を基本にしているの。お客様の目の前でマムシを叩いて粉にしていく様子を実際に見てもらう。そうすることでマムシやスッポン、サメ軟骨以外の余計なものは一切入っていないっていうことをわかってもらえるじゃない?」。
マムシ販売を始めた理由
実際、見てみないとわからないわよね、と粉砕され袋詰めされたマムシを取り出してくれた。予想に反してきれいな白色。「においはお出汁に近いのよ」と電気乾燥釜の蓋を開けて嗅がせてくれる。乾燥しいたけに近い香ばしいにおいだった。「マムシには滋養強壮のほか解毒作用、貧血にも効果があり、スッポンには血液の浄化作用がある」と和枝さん。購入客の症状に合わせて、和枝さん自らマムシの粉にスッポンやサメ軟骨をミックスして調合し販売する。購入客のほとんどがリピーター。「お客様の事情で中断することはあっても『やっぱり飲んでいると体が違う』と言って再開される方もいますよ」と笑顔で語る和枝さん。
そもそもなぜマムシを販売するようになったのか?とうかがうと、「お父さん(和枝さんの夫・昌幸さん)が和太鼓を叩いたりボディビルダーをやっていたりしていたため、体力をつける目的でいろいろ考えたらマムシに行きついた」と語る和枝さん。昌幸さんは碇ヶ関出身。若い頃は歌手活動やホテルのディナーショーなどで和太鼓の演奏披露やボディビルダーの大会出場など活躍の幅を広げていたという肉体派。店内の壁には当時の昌幸さんのポスターがいくつか貼ってあり、筋肉隆々の逞しい身体で太鼓のバチを握る姿が印象的だ。昌幸さん自身が日頃の体力維持のために筋力トレーニングを欠かさず行っていたことから店内にはいくつものトレーニングマシーンが並べられ、和枝さんも昌幸さんに誘われてトレーニングするようになったという。以来20年続け和枝さん自身の体力もどんどん向上して健康になることを実感している。取材当日も私たちの目の前で5キロのダンベルを片手に持ち腕を曲げ伸ばして取材に受け応えてくれるほどの体力に一同驚いてしまう。
笑顔になれる店づくり
10数年前までは高校生たちが「筋トレするために」店へ通っていたこともあったそうで、今は和枝さん自身が実践して効果のあった簡単なエクササイズも一緒に伝えたりすることもあるという。
「トレーニングをやり続けていることで、だんだん『人には負けないものが自分にはある』という意識が自信につながった」と笑いながら話す和枝さんを見ていると、私たちまで元気になってくる。
「健康であれば元気に働ける。それが一番」と和枝さん。「お客様がお店に来たら世間話やおしゃべりを一緒にするの。ひとしきり話したらみんな笑顔で帰っていく。その笑顔を見ていると私も幸せになる。だからお客様がいる限りは元気で続けなきゃいけないし、まだまだお店も辞められない」。マムシ堂は明るさと元気をくれるお店でした。
(記:市民記者 山内佳代子)
【あじゃら山 マムシ堂】
住所:平川市碇ヶ関雷林3-6
電話:0172-46-2274
碇ヶ関で50年以上。歌える理容師・岡部靖昭さん
2019年12月4日
「碇ヶ関にとてもおもしろい人がいる」と市民から情報提供があり、われわれ市民記者は碇ヶ関支所から徒歩2分程にある「理容店オカベ」の店主・岡部靖昭さんを取材してきました。
「やるからには一番に」
岡部さんの理容店は碇ヶ関にあり、弘前や五所川原からも常連客が通う。1942(昭和17)年の北海道小樽市生まれ。「自分はもらい子(養子)だったと母親から聞かされた」という。その母が碇ヶ関出身だったため幼少期に碇ヶ関へ家族で移り住む。「常に『手に職を持ちなさい』と教育された」と岡部さん。中学卒業と同時に秋田・花輪の理容店に弟子入りし、理容の道を歩み始める。「(理容師として)やるからには一番を目指そう」という向上心を胸に、大鰐や弘前で経験を積み、碇ヶ関で1965(昭和40)年に自分の店を構えた。
あくまでも理容師が本業
岡部さんには理容師としての顔を持つほか、歌手としての顔もある。1980(昭和55)年のある日、ふとしたことから「カラオケ大会」に興味本位で出場する。「やるからには一番」という信念は歌にも貫き、初出場ながら優勝に輝く。そこから関係者の目に留まり、青森県内を中心にステージショーに呼ばれるようになる。過去にはローカルタレントの黒石八郎さんともステージを共演したこともあったが、「自分の本業はあくまでも理容師。(ステージは)無理なく出られる時に」と決めて活動を続けたという。
また、「一番を目指す」姿勢は変わらず、理容技術を競う地区大会へ出場したほか、高齢者や障害のある人に理容サービスを提供する「ケア理容師」の資格を取得するなど研鑽(けんさん)に励んだ。
地域貢献という思い
「自分は目立ちたがり屋だから」と語る岡部さんだが、その言葉の裏にはけっして自分の都合や利益のために動くのではなく、「地域のため」「みんなのために役に立ちたい」という強い思いがある。1985(昭和60)年には「アフリカ難民救済チャリティーショー」を岡部さんが企画。その活動が当時の碇ヶ関村長から表彰されたほか、民部平地区に岡部さん一人で散髪の奉仕活動を約10年にわたって続けたという。
「地域のために、人のために恩返しのつもりでやってきた。今は病院通いが多くなり、自分自身を労わるような年齢になってしまった。これからは自分に出来ることで地域を盛り上げたり貢献したりする若い人が増えてくれることを期待したい」と岡部さんは笑顔を見せる。
(記:市民記者 山内佳代子)
【理容店オカベ】
住所:平川市碇ヶ関鯨森31-1
電話:0172-45-2317
街を彩る花壇コンクール
2018年11月15日
平川市では地域や学校での環境美化への取り組みを推進するため、毎年花壇コンクールを開催している。参加団体は6月下旬までに申し込み、審査は平賀公民館長などで構成される5人の審査員が行い、8月に賞が決定される。
今年は22チームの申し込みがあり、『新屋町環境保全会』の花壇が最優秀賞を獲得した。
旧県道13号線沿いの尾上駅近くにある400平方メートルの広さの花壇には花で大きな虹が描かれており、足を止めて写真撮影する人が多いという。
花壇のデザインを担当したのは代表の山口金彦さん。花植えは会員10人で約2日かけて作業した。花壇の面積が応募団体最大のため、花を植えるまでの下描きに最も苦労したと振り返る。
山口さんは、「大人数で花を植え、管理することで会員同士の会話が増え、地域の交流が活性化した」と話す。また、花壇見物客と会話や交流が生まれたほか、以前はゴミを捨てられていることが多かったが、花壇を作ってからはほとんどなくなったという。山口さんは「きれいなところにゴミを捨てる人はいないでしょう?」と笑顔を見せる。
街中の花壇に足を止め、目を向けてみてはいかがだろうか。参加したい方は、近くの参加団体に問い合わせてみては。
(記:市民記者 今井由美子)
平賀駅の地下にあったスーパーマーケット
2018年11月15日
弘南鉄道弘南線・平賀駅にはかつて、地下にあるスーパーマーケットが存在していた。1962(昭和37)年に弘南鉄道が開業35周年を記念し、平賀駅を新しく改築した際に作られたという。
完成当初の広さは198㎡(60坪)。食品・日用品・電化製品・化粧品などの生活必需品の売り場と、理容院があった。開業の翌年1963(昭和38)年には、利用率の増加や「商品の種類を増やしてほしい」といった利用客の要望に応えて拡張工事を実施。さらにその1年後には330㎡(100坪)の拡張工事を再び行い、総店舗面積はバスケットボールコート2面ほどの広さの759㎡(230坪)とした。当初から3.8倍もの広さとなったことになる。
店内の様子(「組合だより」S38.9.20)
賑やかだった当時の様子
平賀農協が発行していた当時の「組合だより」によると、「農協ストアー拡張工事進む」の見出しとともに、拡張後の配列予定図が掲載され、美容室や食堂も新たに設けられることを紹介している。また、拡張後の賑わう写真や、「増築開店大売出し特価品御案内」と題し、衣料品・食料品・缶詰類・お菓子・日用雑貨などの商品が紹介されていたり、「冬物入荷」といった季節物の案内があったりし、当時の様子が伝わってくる。
店内の配列図(「組合だより」S38.6.15)
平賀地域出身で利用した事がある50代主婦は「その当時の交通や買物事情を考えると、地下にスーパーマーケットがあったのは斬新だった」と振り返る。平賀駅の近くに住む50代女性は「ラーメンがおいしかった。鮮魚店の活気があり、新鮮だったのを憶えている」と話す。
今も残る痕跡
そんな地下スーパーマーケットだが、32年前の1986(昭和61)年に、現在の平賀駅にするための新築工事にともなって閉鎖。24年間にわたり「ストアー」や「駅の穴」と呼ばれて親しまれた地下のスーパーマーケットはその歴史を閉じた。
現在の平賀駅には、当時の痕跡が少しだけ存在する。駅正面にある郵便ポストの周りだけが、ほかの所と床のタイルの色が違っている。その場所が、地下への出入口だったという。四半世紀にもわたって農協組合員や地域住民に親しまれた地下のスーパーマーケットの痕跡が、駅の利用者たちを現在も見守ってくれている。
地下スーパーマーケットの出入口だった場所
(記:市民記者 松田公平)
地域に根付いたスポーツの環境づくり
ー尾上サッカークラブ、強さの秘訣ー
2018年11月15日
尾上地域の小学生を中心に活動する尾上サッカークラブ(SC)は、県大会では上位の成績や昨年末は東北大会準優勝といった結果を残し、県外からも注目を集める。最大の特徴は地域の大人が指導するクラブチームであること。代表の天内伸光さんは「サッカーを地域に根付かせたい」「子どもたちにスポーツを楽しめる環境づくり」という思いが原動力になっていると話す。
伸光さんによると、今から50年以上前、尾上中学校在学中に創部したばかりのサッカー部に入り、わずか3カ月の練習だったにも関わらず、県大会3位という快挙を果たしたことが背景にあるという。「その数年後にはサッカー部がなくなっていたことがショックだった」と伸光さん。そこで立ち上げたのが尾上サッカークラブだった。創設は1981(昭和56)年。小学生からボールに触れる環境を作りより日常的にすることで、さらに高い成績を目指すのが狙い。そして創設から3年後には尾上中学校にサッカー部が復活(2017年4月からは15歳以下の『U-15』チームとして活動)。現在では保育園でのサッカー教室
にも力を入れ、園児から中学生までの一貫した指導を実施している。
仲間が増え市外からも
現在約80人が所属し、近隣の市町から通う子どももいる。そして、指導するスタッフは10人以上で、中には地域外から協力する人もいるという。伸光さんの息子で現監督の和宏さんは「尾上SCが活動できているのは周囲の協力があるからこそ」と明かす。そんな協力があるほか、試合に勝つことだけを目的にしているわけではないこともチームの強さにつながっている。「礼儀や取り組む姿勢を教えることで、結果は後からついてくる。そんなチーム作りが目標」と和宏さん。今後の挑戦にも目が離せない。
(記:工藤健)
小国地区と弘前大学の交流とつながり
2018年2月1日
平賀地域小国(おぐに)地区では、夏の宵宮に弘前大学の学生を招待し、交流の場を設けている。招待を受ける学生は、同大学の「へき地教育研究会Clover」(以下、へき研)のサークルメンバーとなる。
へき研は現在38人のメンバーで構成され、主に生徒数の少ない学校のイベントに参加・協力といった活動を主にしている。小国地区とは10年以上に渡って関係が続いており、現在は小国地区の宵宮で子どもたちと肝試しやスイカ割りなどをして交流を深めている。
このつながりのきっかけは、平川市が実施している「コミュニティ助成事業」である。同事業は市の補助金を活用して地域の活性化を図ることを目的にしているが、大学生を招待するといった活用法は市内でも小国地区のみ。当初は、小国小学校で寸劇を行うといった活動もあったという。
現在、小国小学校は廃校となっているが、それでも交流が途切れることはなかったことから、へき研と小国地区の絆の深さが感じられる。へき研代表の三浦良さんは「小国地区との交流を通して教育実習では感じることができないような子どもたちの素直な一面や貴重な経験を得ています」と話す。
小国地区の子どもたちにとっても地域外の若者と交流できることは、新たな価値観を得られるきっかけの一つになっているのではないだろうか。
(記:市民記者 齋藤舜也)
猿賀神社観月祭
2018年2月1日
2017年の猿賀神社十五夜大祭は10月3日から5日までの3日間開催された。観月祭は4日の19時から小雨が降る中で行われ、鏡ヶ池のほとりの高浜虚子の句碑の横に祭壇が設営された。神職の太鼓、龍笛(りゅうてき)の演奏を聴いているとまもなく雲の合間から、中秋の名月が姿を現す。月に向かって神職の祝詞(のりと)の後、近隣から集まってきた人々が参拝。参拝者はお供えのお団子(麦まんじゅう)を1個ずつもらった。この年は150個が準備され、祭の後には全部なくなったそうだ。
観月祭の後に、拝殿に向かって大幟(おおのぼり)の奉納行列が行われたが、今年は短かった。同神社の宮司・山谷敬さんによると、「以前は北海道の崇敬者一行による昆布の御幣、スルメで作った神輿(みこし)の奉納や近郷の大幟奉納行列の賑やかな時代もあったけれども近年は少なくなった。近年は楽しみごとが日常的にあり、交通の利便さにより、いつでも参拝できるようになったこともあり、大祭に対する関心が薄くなってきているようだ。専業農家も少なくなったことにより『神様の恵みの稔り』という気持ちが薄らいできているのではないだろうか。昭和30年代は近隣住宅が臨時民宿となったり、境内にサーカスや見世物小屋が建ったり、小学校は宵宮の午後から一日半休校になったので、皆ワクワクしながら大祭を心待ちにしたものだった」と話していた。
(記:市民記者 大川けい子)
碇ヶ関地域の「符丁」
2018年2月1日
「鬼」「ヘッチョ(おへそ)」「弁慶」などなど。碇ヶ関地域には、さまざまな符丁(ふちょう)があります。符丁とは、その仲間だけに通じる言葉・隠語を意味します。いわゆる「あだ名」です。昔、碇ヶ関に関所があった時代に地元の人が、通行手形を見せなくても、「あだ名」で関所を通ったためという説も伝えられています。
今から60年前。「鬼」という「あだ名」の家に、ある女性が嫁ぎました。その女性は、素直でとても美しい人だったのですが、「鬼」の家に嫁いでしまったため、「鬼の嫁」と呼ばれるようになりました。
しかし、その家が「鬼」と呼ばれる理由があります。昔々、その家のおじいさんの体が大きく、力持ちで、何の仕事も一番であったため、「鬼」という「あだ名」が付いたそうです。「鬼」は必ずしも悪い意味ではないようです。
(記:市民記者 船水德生)
平川おもちゃ病院ってって何?
2018年2月1日
毎月第2土曜日午後にイオンタウン平賀で定期開院している平川おもちゃ病院。院長の鎌田正信さんに聞いてみました。
平川おもちゃ病院は2013(平成25)年3月3日に設立。おもちゃ病院とは、原則無料でおもちゃを修理し、新たな価値を生み出すボランティアグループのこと。現在、全国に600か所あり、日本おもちゃ病院協会が認定するおもちゃドクターは1,400人以上。平川おもちゃ病院は県内5番目のおもちゃ病院として開院し、おもちゃドクターは現在10人。壊れたおもちゃの修理だけでなく、子どもたちと共に生き返ったおもちゃを喜び、科学する心と創造性を養うだけでなく、モノを大切にする意識の向上とリサイクル活動に協力することを目的とし、活動しています。鎌田さんは「現在は100円でいろいろな物が買え、壊れたらすぐに棄ててしまう時代。『もったいない』を合言葉として、おもちゃの修理を通じ、ごみの減量やリサイク
ルなどの環境に興味を持ってほしい」と話す。
ゴミゼロ ゴーゴーゴー?
おもちゃ病院の荷物を運搬する木製台車に「平川530お5-55」のナンバープレートが付いています。これは「平川のゴミゼロ(530)おもちゃ病院(お)ゴーゴーゴー(5-55)」という意味です。もちろん、車検はありません。
(記:市民記者 船水德生)
【平川おもちゃ病院】
連絡先:事務局長 船水德生(平川市社会福祉協議会内)
電話: 0172-44-5937
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